差し伸べられ、振り払われた手には、きっと一生触れることがないと思っていた。





何が起きたのかわからず、ただ、乳母の手に引かれ、俺は住み慣れた家を
後にした。
「さ、坊ちゃま、さよならですよ」
「さよなら?」
涙ぐみながら頷く乳母の手を振り払い、俺は家へと戻る。子供の足で走った
ところで、簡単に年老いた乳母に追いつかれてしまうのだが。
「もう、此処へは帰れないのです。ばばと一緒に暮らしましょうね」
干からびた皮の張り付いた指が俺の肩をしっかりと掴んでいた。
「やだ!だって、おうちはあそこだよ!」
「もう、坊ちゃまのおうちではないのですよ。ばばのふるさとに参りましょうね。
お父様、お母様にさよならしたように、おうちにもさよならなさるのですよ」
「いやだ!いやだよ!」
散々乳母を困らせた。彼女は、俺を故郷に引き取ってすぐ、自分の息も引き取って
しまった。


身寄りのなくなった俺はほんの少しの食べ物と、乳母が肩身としてくれたショールを
腕に抱え、その地から追い出された。貧しい村だった。誰も俺を引き取ろうとはして
くれなかった。
当てもなく俺は歩き続け、これしかないと自分に言い聞かせながら、硬くなったパンを
口に運び、夜露に濡れながら乳母と歩いた道を戻っていった。
見慣れた道に辿り着いたとき、見上げた空には大きな鳥が舞っていた。
「ここ……」
その石造りの橋を渡れば向こうは俺が住んでいた家のある村だ。走り回った草原や、
カブトムシを採った木のある森、子羊を追いかけた牧場のある――俺の家が。
「……」
乳母の言葉を思い出した。彼女は『さよなら』と何度も口にした。それがどういう意味
なのかあの頃の俺にはわからなかった。けれど、『さよなら』というものが何かという
のは知っている。
『さよなら』は別れの言葉だ。
父や、母にさよならしたように、と言うのならば、『おうち』と呼んだ、俺が育ったあの
家はもう無いのだろう。
俺はショールをぎゅっと抱え込んだ。パンはもうなかった。


何処へも向かえない。
そう思ったら足が止まった。橋を渡る直前で俺は立ち竦んでしまった。
空にはさっきの鳥がまだ悠々と舞っている。けれど、俺は何処へも行けなかった。
鳥のように空を舞うことはできなかった。
「坊や、どうしたんだい?」
通りがかりの商人に声をかけられた。
俺の身なりを見て、父も母もいないものと彼は悟ったようだった。
「そこの立派な建物があるだろう?」
彼は中州に造られた立派な建物を指差す。
「マイエラ修道院だよ」
そんなことは知っていた。
「マイエラ修道院は君をきっと助けてくれる」
連れて行ってあげようかと続く言葉を俺は振り切って、踏み出せずにいた一歩を
ついに橋へと降り立たせた。
「大丈夫かい」
商人の声を後ろに、俺はそのまま修道院へ走り込んでいった。
もう、それしかないというように。
何処へも向かえない。けれど、此処しか行ける場所はない。
そんな風に思っていた。
何処へも向かえないはずの俺の、たった一つの向かえる場所だったのだ。
どうにも矛盾した言い方だけど。




何処にも向かえないと思ったのは正しかった。
此処しか行ける場所はないと感じたのは正しかった。
その矛盾に、俺はずっと苛まれることになる。




「ククール、お前、また団長に目をつけられていたぞ」
「はは、別にいつものことじゃないか。目をつけられたところで、俺が反省するとでも?」
「心配してんだって。ドニであまり悪さすんなよ」
「それはありがとう。でも俺が懺悔したところで、誰も信じやしないだろ?」
あの日。
俺がマイエラ修道院の門をくぐったあの日。
静謐な空気に包まれた、あの回廊で、俺は、あの人に出会った。
心配ないと、此処で暮らせば良いと、あたたかい言葉を俺にくれた。
此処に来て良かったのだと、此処しか行ける場所はないと感じたのは間違いなかったと
安堵したのを覚えている。
だが、名乗った瞬間、そのあたたかさは絶対値そのままに冷たさへと変化した。
俺には何がなんだかわからなかった。
ただわかったことは、此処に来るべきではなかったのだということ。そして、俺は何処にも
向かえないということだった。
「神様に祈るしか能がない人生なんてまっぴらさ。今度お前もドニの飲み屋で――」
あの日。
差し伸べられた手を、いっそ掴んでしまえば良かった。
振り払われても。
何も知らぬあの日でなければできなかったのに。
「お堅い頭したあの人も、誘ってみようか?――はは、冗談だよ。あんな奴と飲むなんて
どんなに美味い酒でも不味くなるだろうから金いくら積まれてもごめんだね」
知った今はもう、互いに憎まれ口しか出てこない。







まだ忘れない。
もう忘れたい。
けして忘れない。
ずっと忘れたい。
本当は、その手を、掴みたかった。
















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