背中ばかりを見ていた。
背中しか知らない。
背中だけが俺に向けられる唯一の、彼という存在だった。





笑えるほどセンチメンタルに、俺の掌の中の指輪は俺の温度に染まっていった。
背中ごしに投げられた、もう自分とは無縁のものと空を切って俺の手に飛び込んで
きたそれは聖堂騎士団団長の証である指輪。
その行為は、別れを意味しているような気がした。



「ここにいたのね」
「あ、あぁゼシカ」
「隣、ちょっといい?」
壊滅した聖地ゴルドを後にし、俺たちは三角谷に来ていた。三角谷に宿をとると、
俺は皆から離れ、ふらりと三角谷の教会へ足を運ぶ。
信心なぞまるで持ち合わせていないが、子供の頃から親しんだ場所なのだろう、
あの静謐の空間は。
悔しいが、あの静けさに、心が休まるのだ。
そこにゼシカが訪れた。
「あら。あの生意気なミニデーモン、いないじゃない」
幾つか並べられた木の長椅子の、俺が座っている隣に腰掛けてゼシカは言う。
あの小生意気なミニデーモンは(一応牧師の仕事はこなしているようだが)用もない
のにここに来るなと悪態を吐いて、使うなら掃除をしろと言って出て行った。そのことを
話したらゼシカは笑っていた。
「職務怠慢ね。まるでどっかの不良修道士みたい」
「誰のことを言っているんだか。掃除もしたことのないお嬢さんが」
「あら、やだ。私はこれでも掃除洗濯は得意なんだから」
理想のお嫁さんって私のためにある言葉ねと得意げにゼシカは言い放つ。全く、その
自信はどこから来るのだろう。
「やっぱり、こういうところは落ち着くの?」
一頻り笑ったゼシカが教会を見渡しながら聞いてきた。
「さぁ……」
「私は苦手。黙って牧師さんの話聞くとかできないもの」
「まぁ俺もそうかな。おかげで、座ったまますぐ寝れるようになったよ」
「やっぱり不良修道士じゃないの」
「はは、そういうことになるのかね」
「怒られたりしなかったの?……マルチェロさん、とかに」
ゼシカの視線が俺に止まる。俺はその視線を振り切るように首を振った。
「あいつが俺を怒るときは、『団長として』怒らなくてはならないときだけさ。むしろ
放っておかれたね。あいつにとって俺は邪魔者でしかなかったから、どんなときも」
瞼の裏に、傷ついたあいつが歩く姿が浮かぶ。その力ない姿が、かつて俺に初めて向けた
背中に重なって見えた。
「だけど、私にはそうは見えなかったわ。本当は違うんじゃないの、ククール」
ゼシカはごそと腰に巻いた皮のバッグに手を入れると、指輪を取り出した。
「何でそれを」
「捨てることないじゃない」
「捨てたんじゃない。置いてきたんだ」
「一緒のことよ!」
俺の手をぐいとゼシカは掴むと、無理矢理指輪を俺の手の中に押し込める。
この指輪は、あまりに俺の温度になじんでしまったから、それが嫌で、本当に嫌で、
ゴルドに、置いてきたはずなのに。
「どうして置いてくるの?これはマルチェロさんがあんたにくれたもんじゃない」
「もういらないと、それだけでくれたものだろ。なら捨てたって」
「違うわ!」
小さな教会にゼシカの大きな声が響き渡った。
「きっと違うわ……」
そして今度は打って変わった小さな声で。
「いらないってそれだけであんたにくれたんじゃないわよ。わかんないけど!」
また大きな声で。
「もう、捨てないでよね。あんたが持ってることに、意味があんのよ。そうよ、その
意味があるの。わかった!?」
ぎゅうと指輪ごと俺の手を握り締め、ゼシカは俺をじっと見た。
「あんたが持ってる、それだけでいいんだと思うの」
その目に嘘は吐けないような気がした。
「あんたの夢物語を裏切らないように、これは大事にとっておくことにするか」
「何よ、その言い方!」
でも俺は素直にその目に応えることはできない。
ゼシカの手を払って、俺は掌の指輪を、まだ俺の温度に染まらぬ指輪をカツンと空に
投げ、また掌に収めた。
「余計なお節介して悪かったわね!」
ゼシカはさっきの視線とはまるで違う、怒りに満ち満ちた目で俺を見て、長椅子から
立ち上がる。
「でも、今度捨てたらただじゃおかないから!」
そう言ってドカドカと足音も荒く教会から出て行った。バタンと強く閉められた扉の
余韻が静まる頃には俺の掌の指輪がまた俺の温度を吸い込み始めていた。






指輪を捨てたのは。
あんたがしていた指輪に、俺の温度が溶け込むのが怖かったからで。
指輪を置いてきたのは。
あんたが無縁のものと投げつけた指輪が、まるで手を振り払われたあのときの俺と
重なってしまったからで。
指輪を捨てたのは。
指輪を置いてきたのは。
その指輪が俺の手になじんでしまえば最後、あんたの背中に永遠に囚われてしまう
自分がいる気がしたからだ。
「一生、俺は、」
長椅子から立ち上がり、俺は祭壇の向こうを見上げる。
何度適当に跪き、何度上っ面の祈りを捧げ、何度いいかげんな祈祷をしただろう。これは
その報いなんだろうか。
これがもう本当の別れだと思った、指輪を渡された瞬間。
けれど、指輪が手の中にある以上、あいつと本当に別れられるはずもないと本能が告げた。
背中を追い続け、ただ自分を見て欲しいがために背中を見続けた、あの頃の俺が、指輪を
捨てろと言ったんだ。
それなのに、指輪は俺に戻ってきた。戻ってきてしまった。
思い出すはあいつの背中。
ずっとずっと見てきたあの背中。
瞼に重なる幾つもの過去。その全てにあいつの背中がある自分。
出会ったあのときも、そして、別れた今も。
指輪の温度が俺に浸透していくほどに、出会いも別れも、ただその背中と共に在ることを
知る。


















――別れを思うことは、出会いを慈しむことと似ている。


















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