浴衣 |
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忘れちゃってても構わないわ。 もう忘れとるんやろな。 梅雨が明けた、綺麗な青空が広がる日。 真っ青な空が開けた、梅雨が去った日。 あたしたち二人、小さな甕に貯めたお金持って、街に出たわよね。 土間の奥の方に隠しとった甕に貯めた金抱えて街に出た。 あたしが持つかギンが持つかまず一喧嘩したけど。 ボクが持った方がえぇ言うのに乱菊は聞かへんかったよなぁ。 街への道はぬかるんでいた。 雨が上がったばかりで、道には水溜りがたくさんあった。 でも気にならなかった。 けど、そんなん見とらんかった。 二人で貯めたお金で買うものを考えたら、それはもうわくわくしてて。 これから買うモンのこと考えとったら、気にならへんかって。 食べ物と違って、お金を出さないと手に入らないものだったし。 食うことは金なくてもどうにかなるねんけど、こればかりはどうもできんかったから。 新しい浴衣をしつらえるためにあたしたちは街に行ったんだ。 新しい浴衣を作るためにボクら街に行ったんや。 もう、覚えていないでしょうね。 きっと覚えてないやろね。 これがいいよ、ギンと言ったらそうやねとそれを手に取った。 これがえぇよと言うたら、めちゃめちゃ嫌な顔されてん。 紺色の絣。 薄桃色の小花模様。 鏡を前に合わせてみたら、やっぱり似合った。 無理矢理合わせてみようとしたんやけど、絶対嫌やと言い張った。 これで決まりね、とあたしは袖とかの寸法を測ってもらうように言った。 これがえぇてと反物を乱菊に突きつけたらそのまま突き返された。 ギンが寸法を測ってもらっている間、あたしは自分の浴衣を選んだ。 寸法測ってもろてる横で乱菊は反物を漁る。 これがいいわ、と黒地に足元に橙や赤の花火が散る柄の浴衣を選ぶ。 どうしてそれなんやろとボクは黙って見とった。 ギンの視線を無視して、あたしは寸法を測ってもらった。 乱菊はボクをすっかり無視しきっとった。 だから驚いた。 だから奥にしまっておいた。いつか気付いてくれるように。 もうそれから何度もあたしたちは浴衣を買い換えて。 あれから何度も浴衣を買い換えた。 その度あたしはギンの浴衣を選んだ。 乱菊はボクの浴衣を選んだけれど、ボクは乱菊の浴衣を選ばんかった。 ギンはあれからあたしの浴衣を選ぶことはなくて、それはそれで不思議だった。 やって着てもらいたい浴衣はもう買っとったから。 何度互いの浴衣姿を見ただろう? もう何度も夏という季節と共にして。 着古した浴衣はとうに捨ててしまって。 手元には一番最後に買った浴衣しか残っておらんけど。 あんたが去ったこの家に残っていたのは。 せめて乱菊の手元には、二つ残ってくれたらえぇと。 薄桃色の子供用の浴衣。 君の最後の浴衣姿と、一番最初の浴衣姿を瞼の裏に浮かべた。 忘れるはずなんかない。 忘れようもない。 身体に合わせたところで、袖丈も身幅も全て小さ過ぎる浴衣。 一度は目にしたかったと幼心に願った浴衣姿。 あたしに似合うはずなんかない薄桃色。 淡い色こそ乱菊に映えると思うとった。 いつの間に買ったんだろう、いつの間に残しておいたのだろう。 生きることが精一杯のあの日、せめて浴衣だけは女の子らしゅうあって欲しくて。 着れるはずもない浴衣が、あたしの手の中に残って。 忘れんで欲しかったんやと思う。君には着飾る美しさがあるいうことを。 あたしは涙を流したのだった。 そしてそれを『さよなら』の代わりにしたんやった。 もう戻れないあの頃を思い出して。 もう帰ることのできない家に、唯一残した自分の楔。 永遠に着れない浴衣、それはまるであたしたちが過ごした日々を表しているよう。 傲慢にも自分を忘れへんでと願い、もう戻ることはない日々を最後に悔やんだ。 夢は叶わないから、夢。 けれど、忘れられない想いは永遠に続く。 風化しているようで、そのくせ簡単に甦る感情を、何て表現したらいいんだろう。 |
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