夏暁





夏は嫌い。
夏の明け方は、もっと嫌い。



またこの季節が来たのかと乱菊は暑さで目覚めて実感した。首筋に汗をじっとり
とかいている。額にもじわりと汗がにじんでいた。
「夏、か」
季節は巡る。春が来て夏が来て秋が来て冬が来る。それが繰り返される。暑い
というのに季節の中では夏が好きだと言う輩が多く、理由を聞けばいろんな行事を
列挙していった。花火やら海水浴やら祭やら。
わからないでもない。
確かにそういう行事は楽しいし、夏だから楽しめる部分だってある。そういえば
非番の日を合わせて海に行こうという誘いもあった。花火大会がいついつにある
から浴衣を着て観に行こうと言われた。とりあえずは笑顔で『いいわよ』とだけ
返事をし、きっと自分は行く直前までどうしようか迷って、結局は行くのだろう
と乱菊は思う。
毎年のことだ。
夏は嫌いだと思うのも、どうも気分が沈んでしまうのも。
それはきっと、子供の頃感じた、きっとそれ以上もそれ以下もない寂しさが起因
していると乱菊自身わかっていることなのだけれど。





朝を迎えるのは嫌いではなかった。
夜の闇から逃れられることに安堵するから。
生まれ落ちた流魂街の外れで、治安なんていう言葉の存在しない場所だった。
殺されないよう小さく小さく生きて、たった独りでそれこそ道端に生えている
雑草を食いつないで生きていた。
朝を迎えると、あぁまた昨日も生きられたと思った。朝焼けは乱菊にとって生の
証だったのだ。
けれど、もう朝日は見られないのかもしれないと感じたことだってある。
何かを食べる気力すら湧かず、立ち上がる力も当然なく、人影のない森の中で
倒れたとき―――あぁこのまま死んでゆくのだと。
日は傾き、天から透明な光を届けていた太陽は橙に染まる。それは闇の黒に同化
していく儀式のようなものに見えた。
同じように自分も死という黒に染まるのだろう。橙の光に照らされて夜になれば
死が訪れる。生まれたての無垢な朝の光はもうこの瞳には映らない。
逃れようとしても逃れられない闇の中であたしはこれから生きるのだと乱菊は
目を瞑った。
だが、再び乱菊は朝を迎えた。
「食べ」と橙の光に照らされた手が何かを乱菊に差し出したから。
綺麗な髪をした少年だった。橙よりもずっと透明な髪の色。まだ死ぬなと朝日が
言っているように思えたのは、乱菊が身体も心も弱っていたせいだろうか。





朝を迎えるのは嫌いではなかった。
自分を助けた少年と暮らし始めた。最初のうちはずっと一緒にいたけれど、
その少年――市丸はふらと何処かへ消えるようになった。最初は一日、そして
三日、一週間……いない日が段々と長くなっていく。乱菊は何処へ行くのかと
問うたが、へらりとした笑いを浮かべるだけで市丸はその問いをはぐらかすだけ
だった。乱菊も自分がする問いが不毛なものだと知って、何度目かの後、市丸に
問うことはなくなった。その頃には市丸が必ず此処に帰って来ると妙な確証が
自分の中に生まれていたから。
何処へ行くとも言わずに消える市丸が乱菊と共に住む小さなあばら家へ帰って
来るのは朝だった。
夜の闇を瞼を閉じて見ないようにし眠りにつく。鳥のさえずりで目を覚ましては
家の立て付けの悪い扉を開く。開いた先はちょうど東。家の中に朝の光が差し
込んで来る。
それを何度も何度も繰り返して、それこそ数えるのも馬鹿らしいほど繰り返せば
光と共に長い影が家の中に伸びて来る。
影を辿り、その主を見ても逆光になってその顔を見ることはできない。いつも
乱菊は眩しそうに顔をしかめた。涙が出そうになるのはは光が強過ぎるからだと
自分に言い訳をして素っ気無く「おかえり」と言って朝日に背を向ける。
白い光の向こうから「ただいま」という声がすれば、それにどうしようもなく
安堵する自分がいて、乱菊は市丸の存在が自分にとって大きなものだと実感する。






そんな朝が無くなってしまったから、今の自分が生まれたのだ。






暑い暑い夏の日。
小鳥のさえずりよりも先に暑さで目が覚めた。身体にかけていた薄い布団は
はだけてしまっていて、自分の横に丸まっている。背中に汗を感じて身体を
起こせば隣に寝ているはずの人の姿がなかった。
「ギン?」
名を呼んでみる。狭い家に彼の気配はない。当然見渡しても彼の姿はない。
「ギン?」
閉めたはずの扉、隙間から洩れる朝の光。真っ直ぐな光の線が差し込んでいる。
「ギン!」
乱菊は慌てて立ち上がると隙間に手を入れ扉を開いた。光を辿って行けば
太陽に重なるように市丸の背中が見える。
いや、見えるというよりもそうだと感じるものがある。夏の朝の光はどの季節
より強くて、見据えることができない。
「ギン!」
今にも消えそうなほどに遠い背中に乱菊は声を張り上げる。
「何処へ行くのよ!?」
もうずっと口に出していなかった問いかけを東の方角へと投げつけた。背中は
太陽と同化するように見えなくなる。
「何処、へ、行く、の……」
乱菊はへたりとそのまま座り込んだ。
夏の強い光。
どの季節よりも透明な、どの季節よりも真っ直ぐな光。
それを全身に受けながら涙を零した。
光が強過ぎるから涙が出るのだと自分に言い訳はしなかった。
涙が出る理由はわかりすぎるほどわかっていたから。
きっと、ギンは此処へもう帰って来ない。
生の証だった朝日。
市丸の存在の大きさを感じさせた朝日。
そして、その存在を失う象徴となった夏の朝日―――







夏の朝日はそれを思い出させる。
大切なものを失うつらさを思い出させる。
それがどんなに寂しいことか、思えばそれがあたしの寂しいという感情の原点
なのだ。だからあたしは感情が欠如していると時に言われたりもするんだろう。
だってあれほどに寂しいことなんてないから。
夏なんて嫌い。
全てを浄化するように照らす強い光なら、こんな寂しさも浄化してくれれば
いいのに、ただ強めるだけで思い出させるだけで。
「朝からこんな気持ちにさせないで」
いつまであたしは、心をこんな風に縛りつけておくのだろう……








いつものように出て行ったら君はきっとボクをずっと待ってしまうから、
ボクは帰って来る暁の頃、家を去ることにしました。
夏の強い朝の光の中に入ってしまえば、何も見えなくなる。
眩しくて、眩しくて、瞼を閉じてしまうくらい眩しくて。
何も見えないようにするために、夏のあの日、ボクは君にサヨナラした。
振り返って君にサヨナラ言うときに涙を流しても、光の中にいるボクを君は
見ることができひんやろうから。
どうして出て行こうと思ったのか、その理由はたった一つ。
君の存在があまりに大きくなりすぎて、ボクがボクでおれなくなるような、
そんな怖さに負けてしまったから。
さよなら、乱菊。








「夏は嫌いや」
格子戸ごしに朝日を見やり、市丸が呟いた。
















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