はるかに帰ってきたやさしさよ




 その日は朝から太陽が激しく輝き、地上に黒い影を落としていた。
 肌が溶けるほどの猛暑が太陽が沈む時間まで約束されたようなもので、ほとんどの死神はいかに外出しないで
終業までやり過ごす方法を、仕事そっちのけであれこれ考えていた。


 三番隊隊長の市丸ギンと副隊長である吉良イヅルが少々入り組んだ任務を終えて、ようやっと詰所に戻ってこれた
のは既に昼を過ぎた時刻のこと。
 執務室の中でやれやれと汗を拭って、きぃんと冷やされた麦茶を一気にあおって、遅目の昼食をとってひと休み・・・
しようとした途端。
 一体どこから見ていたのやら地獄蝶がふわふわと飛んできて、無機質な声で一方的に伝令を告げてきた。


 伝令の内容は流魂街のとある地区への巡回要請。
 そこは最近富みに治安が荒れているらしく、その引き締めのためにも隊副隊長揃っての巡回を・・・と、いう話であった。


 これまた面倒としか言いようのない任務に、たちまち不機嫌になったギンは地獄蝶を射殺してやろうと、思わず神槍に
手を伸ばしそうになる。
 だがそこが自分の出身地区であることを知ると、白い手が大人しく元の位置に戻った。
 命拾いしたとも知らず、役目を終えた地獄蝶はまたふわふわと飛び去ってゆく。



「やれやれ・・・」
 蝶を見送ったイヅルが障子を閉めて、うんざりとした風にため息をついた。
「・・・よりによって何でウチなんだろ?更木隊長が睨みきかせた方がよっぽどか効果があると思うのになぁ」
 情けなさそうに呟いたイヅルに、ギンは笑いながら悪戯な手をぶらぶらさせる。
「きっとボクがそこの出やから・・・やろ?」
「そうなんですか?」
「えらい前のこととはいえ、多少の土地感はまだ残っとるからなァ」
 そう言ってギンは窓の外に目を向けた。



 遠い記憶の底から、ささやかな思い出がよみがえってくる。



 あのね、今日初めて会った死神さんが教えてくれたんだ。
 それであたしに『おまじない』してくれたの。
 意地を張らずに言いたいことが言える『おまじない』を。
 これできっと大丈夫だよって言って、あたしの背中を押してくれたの。


 そういえばあの死神さん・・・



 そこは乱菊がギンに教えてくれた秘密の場所。
 そう、今の時期ならばきっとあの池には・・・


 夜まで流魂街にいることはできないであろうが、記憶を辿って歩いてみるのもいいかもしれない。
「行こか、イヅル」
 急かさなくても珍しく自分から行く気になったギンに、イヅルは驚きながらも「はい」と答えて自分の斬魄刀を掴んだ。





 番人によって開かれた門をくぐると、舗装されていない道と粗末な街並みが二人の死神を出迎えた。
「巡回ですか?」
 門が閉まるなり年かさの門番が物怖じしない態度で、下の地区担当とは思えないほどのんびりとした声でイヅルに
話しかけてくる。
「はい、最近この地区が物騒だということで・・・」
「ああ、そうなんですよ・・・確かここをずっと南に下って行ったところに、出入口に小さな赤い籠を置いてある家がありまして
ねぇ。そこが・・・」


 イヅルと門番が話す声を背に聞きながら、ギンは懐かしい街をぐるりと見回す。
 すると民家の戸が開いてひとりの若い女が出てきたが、ギンの姿を認めるやいなや真っ青になって、ぴしゃりと音をたてて
戸を閉めてしまった。
 そういえば門をくぐった途端に住民達の声がぱったりと止んでしまったし、今も誰ひとり外には出てこようとしない。
 まるで旅禍のような扱われ方に、ギンはひっそりと苦笑を漏らす。


「夕方までには戻る予定ですので、その時にまたお願いします」
「わかりました、お気をつけて・・・」
 そこで門番との会話が終わって、「お待たせしました」とイヅルが戻ってくる。
「市丸隊長。あの門番に話を聞いたところですね・・・」
「なァ、二手に分かれん?」
 急に割って入ってきたギンの提案にイヅルの丸い目が瞬く。
「は?」
「ひとつの地区ゆうても広いし、その方がきっと効率がええやろ?」
「それはそうですけど、でも怪しい民家があるという以上まずはそこから・・・」
 イヅルが「それはそうですけど」と口にしたことを肯定の意味だと都合良くとって、畳みかけるようにギンは「決まりやな」と
手を打った。
「え、ええ?」
「そんならボクはこっち巡回するさかい、イヅルはその怪しい家ん方やっといてな」
「い、市丸隊長!?そんな勝手に・・・」
 困惑するイヅルに背を向けて、ギンはさっさと駆け出していく。
「じゃあな〜」
「た、たた隊長〜!」
「何やったら手ぇ開いとるヤツ呼んでええよ〜」
 無責任極まりないことを言いながら、ギンは後ろ向きでイヅルに大きく手を振って目的の方向へと走っていった。




「すまんなァ、イヅル」
 詫びを言いながらギンはしばらくの間走り続けて、適当な場所で速度を緩める。
 ああ見えて諦めは良いイヅルのことだから(彼をそうしたのは他でもないギン自身ではあるが)、今頃胃のあたりをさすり
ながら伝令神機で副官補佐に連絡を取っているだろう。


「あの池が今もあるんか、それが知りたかっただけやから」
 記憶の糸を辿りながらギンは、だんだん狭くなる道を歩いていく。
「そうそう・・・ここ曲がったらひょろ長い木が・・・あったあった・・・そんでここを真っ直ぐ歩いてって・・・」
 ギンの心はすっかり少年だったあの頃に戻っていた。
 はやる気持ちを抑えながらも、足取りも軽く順調に歩を進める。
「この草原を突っ切ったら、もうすぐや・・・」
 あの頃は身の丈ほどもあった草が、今は腰の位置までしかない。
 尖った葉の先で手を切らないように気をつけながら、ギンは草をかき分けていく。


 ようやっと草の海から脱出して、短くて急な坂を登り終えた時だった。
「・・・のバカぁ!」
 突然聞こえてきた大きな声に驚いて、ギンは足を滑らせしまいそうになる。
「な、なんや?」
 辺りを見回すと目印の内のひとつであった大木の下で、声の主らしき子供が膝を抱えて座り込んでいるのが見えた。
 子供は少女であるらしく薄汚れた桃色の着物を身に纏い、立てた膝に顔を埋めて肩を震わせている。
 ひっくひっくとしゃくりあげているあたり、泣いているのだろう。


 ギンは足音を殺してゆっくりと少女に歩み寄ると、気配を感じ取ったのか膝から小さな顔が上がる。
『ほぉ・・・ひょっとしたら霊力あるんかな』
 そう思いながら少女の顔を見た瞬間、ギンは息をのんだ。
 少女は髪の色と瞳の色が乱菊と同じどころか、顔も恐ろしいほど似通っていた。しかも全く同じ位置に黒子まである。
 あまりの驚きに声すら出ないギンを、少女の固い声と警戒の『気』が我に返らせてくれた。
「誰?・・・死神・・・さん?」
「あ・・・あァ・・・」
 我ながら間の抜けた返事だと思いながら、ギンは少女の前で腰を落とした。
「別に怖がらんでもええよ?別に悪いことしに来たわけやないから」
「うん・・・」
 その一言であっさりと警戒を解いてしまう姿に、ギンは目の前の少女が乱菊ではないことを確信する。
 もし乱菊であればちょっとやそっとのことでは警戒を解かなかったし、何より乱菊は既に大人でギンと同じ死神になって
瀞霊廷で暮らしているのだ。
 こんなところで少女に戻った姿で存在しているはずがない。
 ギンは振り切るように頭を振って、手ぬぐいを取り出した。
「これで顔・・・拭き」
「え?」
 差し出された手ぬぐいを見て、少女は濡れた目をギンへと戻す。
「折角の可愛え顔が涙でぐしゃぐしゃや」
 ギンが笑うと少女は顔を赤らめて、手ぬぐいを受けとって顔をごしごしと拭いた。
「ありがとう・・・」
 蚊の鳴くような声で少女は礼を言い、ギンに手ぬぐいを返してくる。



「・・・なんかあったん?」
 少女は汚れた足に視線を落として、ギンの質問に答えようとしない。
「誰かと喧嘩したんやろ?」
 笑いを含んだギンの声に少女は弾かれたように顔を上げる。
 目の前に浮かぶ少々人の悪い笑顔に気分を害してしまったらしく、少女は顔を赤くしてぷいっとそっぽを向いた。
「あー・・・もしかして気ぃ悪うした?」
 小さな桜色の唇が尖っているのを見て、ギンは困った顔になって頭を掻く。


 ふと思いついてギンは死覇装束の袂から、小さな紙袋を取り出した。
 そっと袋を開けると中には色とりどりの金平糖が、日光を受けてきらきらと光りだす。
 金平糖は朝の任務からの帰りに立ち寄った菓子屋で、執務室でゆっくり食べようと買い求めたものだった。
 流魂街の下の地区でこういった甘いお菓子が、口に入る機会は滅多とない。
 案の定そっぽを向いていた少女も甘い香りに気付いて、ギンの手に広がる金平糖の光に目が釘付けになっていた。
「さっきのお詫びや。これ全部キミにあげる」
 少女はよほど驚いたのか大きく見開いた瞳を微笑むギンに合わせて、沈黙を保ったまま再度金平糖に目線を落とす。
 まだいささかの警戒心が残っているのか、喉を鳴らしながらもなかなか袋を受け取ろうとしない少女に、ギンは苦笑して
金平糖を口に放り込んでみせる。
「な?なんも入ってへんやろ?」
 こりこりと音をたてながらギンがそう言うと、少女はようやく袋を受け取ってくれた。
 早速少女は金平糖を手の平にあけて口に放り込み、一杯に広がる甘さに幸せそうに酔いしれる。


「うまいか?」
 うなずいてまた金平糖を口に入れる少女に、ギンは安心して少女の隣に腰を下ろした。
「それにしても懐かしいなァ・・・このへん全然変わってへんわ」
 しみじみと呟いたギンの言葉に、金平糖を噛み砕きながら少女が見上げてくる。
「もしかしたらって思ってたんだけど、死神さんってやっぱりここの出身だったのね」
「へ?」
 ギンが訊き返すと、少女は口の中の金平糖を飲み込む。
「普通の死神さんならこんな辺鄙なとこ絶対知ってるはずがないもの。住人でもほとんどここまで来ないし、最初っから何か
目的があるように見えたから」
「へえ、結構頭ええんやなァ」
 褒められると少女は照れ臭そうに笑って、まだ半分ほど残っている金平糖の包みに目を落とす。


「死神さんも・・・ここで誰かと暮らしてたの?」
 さびしそうな小さな声とうなだれる姿に、ギンは幼い日の乱菊を重ねていた。
「あァ・・・キミぐらいの歳に女の子を拾うて、死神になるまで一緒に暮らしてた」
「ふぅん、その子と喧嘩・・・した?」
「したした・・・その子はボクと違ごうて繊細で頭のええ子やったから、しょっちゅう傷つけたり怒らせたりしてもうてな・・・よう
見捨てられんかったなと今でも思う」
 笑いかけると少女も笑ってくれたので、ギンは話を続ける。
「ボクはその子に嫌われるんがほんまに怖かった・・・せやから突然怒られても、どないしたらええんかわからんでオロオロする
ばっかで、それでまた一層怒らせてしもうて・・・の悪循環やった」


 ギンの脳裏に幼い日の乱菊がよみがえってくる。
 唇をきつく噛んで大きな目に涙をいっぱいに浮かべ、拳を握り締めてギンを睨みつけている乱菊の姿が。
 自分が悪いのだということはわかっていた。
 だが一体自分の何が乱菊を怒らせてしまったのかが全くわからなかった。
 そのうえ一方的に怒鳴りつけた後に決まって泣き出してしまう乱菊を、宥める術も慰める術もギンは持っていなかった。


「毎回そんなかったから、『もう顔も見たくない!二度と帰ってこないで!』って言われる始末で、そんで・・・」
「帰らなかったの?」
 突然少女が真顔で覗きこんできたので、ギンは笑いながら首を横に振った。
「そんなわけないやん。ボクはその子がおらんかったら、世界が真っ暗になって一歩も進めんのやから」
 少女は大きな瞳を瞬かせた後、何度か浅くうなずいた。
 最後の方は意味がよくわからなかったみたいだが、それでもギンが自分なりに乱菊を大切に想い、望んでそばにいたという
ことは理解してくれたようだ。


「良かった、帰ってきてくれて」
 少女が安堵の息と共に言葉を吐き出す。
「なんで?」
「さっきあたしも同じこと言っちゃったから・・・」
「なるほど」
「あたしもね、あいつとよく喧嘩するの」
 膝を抱え直して少女が話し始める。
「さっきの死神さんのお話・・・あたしとあいつみたいで、すごくびっくりしたんだ・・・」
「へぇ」
「原因はね、いっつも下らないことなの。怒ってる内に忘れちゃうぐらいに」
「あはは・・・そこもおんなじや」
 笑い出したギンに少女もつられたように笑った。
「そうなの?」
「あァ、ボクが帰ってきたらいっつも嘘みたいにすんなり許してくれてたんや。なんか腑に落ちんかったから何年か後で訊いて
みたら、実は怒ってる内に理由を忘れたからなんやって」


 もしかしてそこも同じかとギンが問うと、笑いながら少女がうなずく。
 ひとしきり笑ってから、少女は金平糖の入った紙包みを大事そうに袂にしまった。
 きっと仲直りのしるしにと、喧嘩してしまった『あいつ』にあげるつもりなのだろうか。


「あいつだけが悪いんじゃない・・・あたしだって悪いんだってこと十分わかってるの・・・あたしに非があるなら、すぐに謝ればいい
ってこともわかってる・・・でもどうしても言えないの・・・『ごめんね』って」
 少女はさびしい時の癖なのか、また膝を抱え直す。
 乱菊もまたひとりぼっちになって自分を待っている間、こうやって何度も膝を抱え直していたのだろうかとギンは思う。
「あいつだって少しは言い返してくれりゃいいのにさ・・・わけわかんなそうな顔で『ごめん』とか『悪かった』って言うだけなんだもの
・・・あいつが悪くなくても腹立つわよ」
「あー・・・ごめん・・・」
「・・・ってことは死神さんもそうだったのね」
 困ったように頭を掻くギンに、少女は微笑む。
「死神さんって、ホントあいつそっくり・・・あいつも困った時はそうやって頭掻くの」
「そうなん?実はボクもキミをひと目みた時から・・・」
「その子に似てるって思ったの?」
「あァ、瓜二つや」
「そうなんだぁ・・・」



 見つめてくる瞳が悲しくなるぐらい透き通っていて、ギンは胸が鷲掴みされたかのように息苦しくなってくる。
 乱菊が自分を真っ直ぐ見つめてくる度に、いつしかギンは胸苦しさを感じるようになった。
 耐え切れずに視線を反らせば、乱菊はさらに怒り時には悲しそうに泣き出す。
 そんな風に時は流れて、乱菊はやがて自分をうつす瞳に『諦め』を滲ませるようになった。
 思えばその頃から喧嘩の頻度も少なくなっていったような気がする。



「その子も死神になったの?」
 少女の問いに、ギンは我に返った。
「あ・・・うん・・・」
「今でも仲・・・良いの?」
「うーん・・・お互い忙しいし、そもそも所属するとこが全然違うからなァ・・・昔のようにはいかんね」
「ふぅん・・・」
「ボクも気にしとるし、あっちも気にしてくれとるみたいやけどね・・・それだけが救いかなァ」
「そう・・・」
「・・・それでもボクは結構幸せや」
 ふと口からこぼれ出たギンの言葉に、少女も顔を向けてくる。
「運良う一緒に統学院に入学できて卒業して、入隊試験も合格して・・・同じ隊には入れんかったけど、バランス良う二人して
出世できたしな。大人って色々面倒やから、これがどっちかだけやと難しかったと思う。ボクらは今でも同じ場所から見つめ合える
・・・それだけで十分や」
 乱菊はもうあの頃のような真っ直ぐな目で、自分を見つめてくれることはないだろうけれど。
「大人の世界はよくわかんないけど・・・好きになってくれなくてもいいってこと?」
「そやね・・・」



 それでも嫌われるよりはずっといいから。
 乱菊はギンとわかり合うということを、既に放棄してしまったから。
 ギンの乱菊に対する想いは『好き』でもなく、『愛してる』でもない。
 もっともっと上の眩しい光の彼方にあるような・・・





 小さかったはずの木の影がだいぶ横に傾いて伸びているのを見て、ギンは随分と長居をしてしまったことに気付いた。
 そろそろイヅルも用事を片付けた頃だろう。
 伝令神機が鳴らない内にと、ギンは自分の用事を済ませるために立ち上がった。
 ふと思いついてギンは訝しげに見上げている、少女に手を差し伸べる。
「ボクの秘密の場所・・・キミだけに教えたげるわ」
「秘密の場所?」
「あァ、あいつがボクだけに教えてくれた場所なんや・・・良かったら行ってみん?」
 少女はしばらくギンを見つめた後、おそるおそる伸ばされた手を握った。



 小さな手を引いてギンは更に奥へと入ってゆく。
 後ろに気遣いながら草をかき分けて進む内に、水の匂いが鼻先をかすめる。
 しばらくすると急に視界が開けて、豊かな水をたたえた小さな池が見えてきた。
「あったあった・・・昔とちっとも変わってへんわ」
 ギンに手を引かれた少女も草の中から出てきて、池を目の前にすると歓声をあげる。
「わぁ・・・こんなところに池があったなんて全然知らなかった・・・」
 池は深い色の水で満たされ、そこから吹きつけて来る風はとても涼しかった。
「ここは魚も獲れるし、飲み水にも困らんし、水浴びだってできる・・・ええことずくめの池なんや」
「へぇ」
 少女は目を輝かせて池の端のぎりぎりまで近づき、そっと覗き込んでいる。
「でもこの池の一番ええとこは・・・」
 横顔をしげしげと見つめて続きを待っている、少女に気付いてギンはニッと笑う。
「秘密や」
「あ、ずっるーい」
 不服そうに少女が頬を膨らませると、ギンは楽し気に声をあげて笑った。
 ギンは少女に向かって手を伸ばし、少し荒れてはいるが柔らかい髪を撫でる。
「夜が近うなったら、この池に来てみ。そしたらボクの言うたことがわかるから」
「うん、行ってみる」
 微笑んだ少女に眩しそうに目を細めて、ギンは名残惜しそうに髪から手を離した。


「喧嘩した子も連れてきたらええよ。ここでならきっと素直に謝れると思うから」
 静かなギンの声に少女は頬を染めて、不安そうな小さな声で「できるかな?」と呟く。
「できるって」
 ギンは励ますように少女の肩に手を置いてやった。
「キミならきっとできる・・・ボクが保証したるから、な?」
「ん・・・」
「それでも不安なら、目ぇ閉じてみ?」
「こう?」
 素直に目を閉じた少女に苦笑して、ギンは小さな額に唇を落とした。
「え?」
「おまじないや」
 一体何をされたのかわからないらしく、少女はきょとんとした顔でしきりに額を擦っていた。
「キミが意地張らずに『ごめん』って謝ることができる『おまじない』」
 目を瞬かせて見上げる少女に笑いかけて、ギンは太陽が沈む時間がいよいよ近づいてきたことを知る。


「さて・・・池も無事あったことやし、そろそろ帰るかなァ」
 伸びをしてギンがきびすを返すと、慌てて少女も後を追ってきた。
「もしかしてこの池を見るためだけにここに来たの?」
「まぁな」
 本当は違うのだが半分は当たっていたので、前を歩きながらギンは小さく笑う。
「二人だけの秘密の場所だったんでしょ?なのにあたしに教えて本当に良かったの?」
 ここで茂みが終わり、元の木のあった場所に出た。
「ボクらはもう二度と一緒にあの池に行くことはない・・・あそこはもうボクらの『秘密の場所』やなくなった・・・」
 ギンは池があった方向を遠い目で見た後、聡明な少女を見下ろす。
「せやからボクらによう似たキミらが、あの池を二人だけの『秘密の場所』にして欲しい・・・それだけや」
「よくわかんないけど、わかったわ・・・あいつと大事に守っていくから・・・」
「ん、ありがとな」
 どこまでも正直な少女にギンは微笑んだ。


「ねえ、最後に訊いてもいい?」
「何?」
「その子のこと・・・今でも好き?」
 ギンの乱菊に対する想いは『好き』だけでなく、他のどんな愛の言葉でも表すことは難しいのだけど。
 少女の質問にわかりやすく『応える』ために、ギンはわざと曖昧な言葉を選んで答えてみせた。


「・・・多分な」
「多分ってどういうこと?」
「多分・・・いや、きっと『好き』なんやとは思う・・・あいつのことを嫌いになることなんて絶対にありえへん・・・せやけど『好き』
にも色々あるから、一体これはどの意味での『好き』なんか考えるのがちと怖いんや」
「そう・・・大人って本当に面倒なのね」
「せやろ?」
 ギンは苦笑すると、少女の頭を優しく一度だけ撫でた。


「じゃあ、そろそろ行くわ」
「うん、死神さん。今日はとっても楽しかった」
「あァ、ボクもや」
 ギンは片手をあげて少女の前を離れようとした途端、突然強い風が正面から吹きつけてきた。
 舞い上がる葉や小石やちぎれた草から守ろうと顔を腕で庇い、飛ばされそうなぐらいに細い少女の身が心配になった。
 大丈夫か。と、口を開きかけたところで、ギンは風の音に混じって懐かしい少女の声を聞いた。




 ごめんね、ギン

 ありがとう、ギン

 ごめんね、ギン

 ありがとう、ギン




 ようやく風がおさまるとギンはひとりぼっちで、そこに立っていた。
 少女が立っていた場所には誰もいない。
 足跡すら残っていなかった。


 ギンはもつれていた糸がするすると解けていくように、己の底に眠っていた記憶を取り戻していく。


 今日のような猛暑の日に、忘れてしまうぐらい下らない理由で乱菊と喧嘩をして住処を追い出された。
 乱菊の機嫌が治るまで待とうと外をぶらついている内に夕暮れになり、おそるおそる住処へ戻ってみたところ、乱菊は待ち
構えていたように立ち上がる。
「ちょっとついて来て」
 と言ったきり黙って歩く乱菊に、ギンも黙ってついて行った。
 そうして連れて行かれたところが例の池だったのだ。


 薄暗い池のどこからかおぼろげな光を放つ蛍が飛んできて、その数は暗くなるにつれて増えていく。
 二人の周りにはいつしか凄まじい数の蛍が飛び交い、夜だというのにお互いの顔がはっきり見えるぐらい明るくなった。
 ギンの着物にも乱菊の髪にもおぼろな光が灯り、ささやかに点滅を繰り返す。
 夜の池で舞い狂う蛍火の群れ。
 幻想的な光景にギンも乱菊も声が出ず、ただ優しくてどこかもの悲しい光たちに見惚れていた。


 いつの間にかギンと乱菊は小さな手を繋いでいた。


「ごめんね、ギン」
 ふと聞こえた小さな声に、ギンは微笑んで首を横に振った。
「ありがとう、ギン」
 蛍の光に照らされた顔が微笑み合い、また幻想の世界に目を向ける。




 後で乱菊に訊いてみたところ、あの池は喧嘩した日にたまたま出会った死神に教えてもらったのだと言う。
 しかもその死神から金平糖までもらっていて、紙袋を自分に渡してくれたのだ。
 初対面でしかも死神にそこまで心を開くなんて、警戒心の強い乱菊にしては珍しいと思っていたら、驚くことにその死神が
顔も口調も自分にそっくりだったらしい。
 だから他人だという気が全然しなかったと、乱菊は笑っていた。




 しばらく呆然と立ち尽くしたした後、ギンはそよ風に吹かれながら今度こそ背を向けて歩き始める。
 少女だけでなくあの池も幻だったのか、確かめるのはやめておくことにした。
 幻であろうとなかろうとあの池は、昔も今もギンと乱菊だけの秘密の場所なのだから。


 だいぶ薄暗くなってきた。
 あの池にもそろそろ蛍が飛び交い始める頃だろう。


 イヅルも待ちくたびれて伝令神機に手を伸ばす頃かもしれない。
 ギンは足早に元の道を歩いていく。


 帰りにもう一度あの菓子屋に寄って、金平糖を買ってこよう。
 もし近い内に乱菊に逢う機会ができたなら、「一緒に食べよ」と言って差し出してみよう。
 逢えなくてもいい。乱菊に逢えるまで金平糖を買い続けて、渡せなかった分はイヅルや隊員達に食べてもらうとしよう。


 いつか乱菊と逢えた時は一緒に金平糖を食べながら、あの日の蛍を覚えているかと訊ねてみたい。
 もし乱菊がうなずいたなら、どうしても言っておきたい言葉がある。



 ごめんな、乱菊

 ありがとう、乱菊



 本当に伝えたいことは
 きっと永遠に
 この口を割って出ることはないだろう


















ブラウザバックでお戻り下さい。






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