烙印




 雫が散った。
 赤い色の雫が。


 ぱたぱたと音をたてて雫が石畳の地面の上に落ちて丸い模様を作る。
 その深紅の雫を降らせる雲は、漆黒の衣を纏うひとりの女の形をしていた。


 女の全身は血に覆われている。
 黒衣の引き千切られた箇所から覗く肌も襦袢も、女の血と同じ色をしていた。
 満身創痍の女は酷く苦しげに喘ぎながら、曲がった刀を杖にして少しずつ進んでいく。
 女の右の肩には爪でえぐられたらしき傷があった。
 そこからとめどなく血は溢れ、衣の中を伝って手の甲に流れ出てくる。
 右手は刀の柄に襷できつく縛りつけてあり、流れ出た血はそのまま刃の上を滑り落ちてゆく。


 女の通った後に紅の痕跡が残される。


 もう少し・・・もう少しで着く・・・
 お願い、それまで足よ動いて・・・


 数歩先の地点を突こうとした刃先が滑り、女は短い悲鳴と共に地に倒れ伏した。
 しばらくそのままの姿勢で喘いでいたが左腕がもぞりと動き、地面に手を置いてわずかに
 上体を浮かせた。
 それだけでも辛いのか、女の唇から苦悶の声が漏れる。
 ぎりりと唇を噛み締め、細い血の筋が流れた。
 女は最後の力を振り絞って、左手で地面を思いきり突き飛ばすようにして仰向けに転がる。
 その時に右肩の傷が地面に擦れて、激痛に女は叫び声を漏らした。


 またじわりと生温い血が流れ出て来る。
 仰向けになった女は右肩のあたりに出来た赤い血溜まりを、生気のない瞳でぼんやりと
 眺めていた。
 そして首を動かすと目に明け方の空が飛びこんでくる。
 女には夜の空しか見えないが、随分遠くの方で太陽がのぼり始めているのがわかった。




 もう、いっそここで死んでしまってもいいかもしれない。
 女はそう思う。
 朝の空気は残酷なほど冷たくて優しい。
 夏の夜明けはどうしてこんなに早いのだろう。
 せめて夜の闇の中でなら、醜い己の姿を見ずに死ねたのに。
 こんなきれいな光の中でも清められないほど、この身は血で汚れてしまったのに。


 あそこの世界なんて大嫌い。
 あたしからあれもこれも奪っておいて。
 全てなくなってしまっても、なおも奪おうと手を伸ばしてくる。


 副官補佐になって初めての部隊。
 隊を挙げての大規模な戦闘。
 初めての部隊長。


 女の部下は全員殺され、巨大虚に食われた。
 孤立無援の状態になり急いで救援要請をしたが、隊長の部隊も副隊長の部隊にも全く通じない。
 まさか全滅・・・と、悪い予感が女の胸を支配する。
 虚の爪が襲ってきたことに気づいた時は既に遅かった。
 絶望が判断力と動きを鈍らせたのだ。
 視界が血よりも赤く染まる。


 それでも女はなぜか冷静になれた。
 危うく倒れるところだった体を支えたのは、意外にも虚の下卑た顔と嘲笑の声。


 あたしはこいつに食われるために、死神になったんじゃない!


 右肩から滝のように血を流しながら、女は破道の詩を唱え手を構える。
 両方の手のひらから火砲が放たれ、虚の頭部を破壊した。





 隊長・・・副隊長・・・
 みんな・・・みんな死んじゃったの?
 もしかして生き残ったのはあたしだけなの?


 朝の光はやがて女の全身を照らしだす。
 まるで慈しむかのような優しく暖かい光を与えてくれる。
 薔薇色の空を二羽の鳥が飛び去っていくのを見て、女の瞳から涙が溢れ出してきた。
 涙は女の目尻から伝い落ちて、泥や血で汚れた髪の毛を濡らしていく。
 光から逃れたくて女は両目を左手で覆い、ひとり悲しく嗚咽した。


 またあの世界にあたしの大切なものを奪われた。
 そしてあたしは誰かの大切なものを奪った。
 これからもきっとあたしは奪い奪われ続けるのだろう。
 だけど。


 女はゆっくりと左手を上げると、ほとんど感覚がなくなった血塗れの右手首を取る。
 そして傷の痛みに顔を顰めながら、少しずつ刀にくくりつけられた右手首を持ち上げ刃先を
 空に向けた。
 いつもは何てことない動作であるはずなのに、今はとてつもなく重く感じられた。
 その重さは斬魄刀自体の重さだけではないだろう。
 おそろしい数の虚を斬ったおかげで、曲がってしまった斬魄刀。
 手がぶるぶると震える度に刃から落ちた血が、女の顔に降っていった。


 ごめんね・・・こんなにしちゃって・・・
 女は斬魄刀に詫びる。
 すると暖かな風が傷だらけの体を撫でてゆき、赦された実感に女は新たな涙をこぼす。
 夏の夜明けはいつだって傷ついた者に優しすぎる。


 あの世界は大嫌い。
 あたしから何もかも奪おうとする世界が。
 あたしを奪う側にさせる世界が。
 あたしを飢えさせて戦わせて、余計な宿命を負わせた世界が。
 だけど、あたしは帰ることを選ぶ。
 大嫌いな大嫌いなあそこが、唯一あたしが住むことを許された世界だから。


 せめて酷い顔を見られないように、涙を拭っておきたかった。
 だけどもうこの動作が精一杯。




「解錠!」




 地獄蝶が飛んでゆく。
 その行く先にあらわれるものは尸魂界へ通じる扉。


 ああ、そうか。
 扉をくぐらないと辿り着けないんだったわ。
 あたしってば・・・馬鹿みたい・・・
 目がかすんできた・・・瞼も重い・・・
 あたし・・・もう・・・駄目なのかな・・・?


 おりてゆく瞼と遠ざかる意識が、ひとつの足音と真っ白な足袋を捕らえた。
 その主を確かめる気力もなく、女はかすれた声でうわ言のように告げる。
「十番隊・・・第四席・・・松本・・・乱菊・・・・・・第・・・五部隊・・・
 全滅しまし・・・た・・・」
 倒れた女の脇にしゃがみこんだ『誰か』が、そっと頬を撫でてきた。



「よく生きて帰ってきたな。もう大丈夫だ、ゆっくり休め」



 その声を聞き届け、女は涙を流しながら気を失っていった。


















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