夏風邪




「ん、これでいいみたいね」
 分厚い書類の束の最後の一枚を確認し終えた乱菊の一言で、それまで張りつめていた空気が緩んだ。
「ご苦労さま、急に無理言って悪かったわね」
 乱菊は書類の束を机の上で揃えながら、雑務を手伝ってくれた三人の副官補佐を労う。
「いいえ、そんなことありませんよ。松本副隊長」
「そうですよ、副隊長こそ隊長代理お疲れさまでした」
「ありがとう」
 明日一番隊に提出する予定の書類を封筒にしまって、乱菊は微笑んだ。


「どうぞ」
 という声と共に第五席の副官補佐が、乱菊の前にお茶の入った湯のみを置く。
「ありがとう、あんたも就任早々大変だったわね」
 乱菊は五席になったばかりの女性死神にも労いの言葉をかける。
「いいえ!そんなことは・・・」
 お盆を手にした第五席は首を横に振ってから、客用の長椅子に座っている補佐達にも湯のみを配って
いった。


「ところで・・・まだ良くならないんですか?日番谷隊長」
 第四席の質問に乱菊はうなるような声と一緒にお茶を飲みこむ。
「う〜ん・・・熱が下がりそうで、なかなか下がらないのよね〜・・・」
「そうなんですか?」
「卯ノ花隊長に診察していただいても・・・ですか?」
「うん、まぁ・・・」
 と、乱菊は歯切れの悪い返事をかえす。
「大変ですねぇ」
「まあ、夏風邪は治りにくいって言うしな」
「そういえば四番隊のヤツが最近あちこちで流行ってるとか言ってたっけ」


 副官補佐達の話題は違う方向にゆき始め、乱菊はほっと息をついてお茶を一口飲む。
 日番谷が夏風邪の高熱に倒れて、今日で五日目が経過しようとしている。
 運悪く大切な書類の提出日や隊首会が重なってしまい、急遽乱菊は十番隊隊長代理として瀞霊廷中を
忙しく走り回る結果となった。
 日頃の行いがものを言ったのか仲良くしていた副官仲間や部下が協力してくれて、隊長代理としての
大仕事を無事こなすことができた。


「子供でもやっぱり『隊長』よね」
 ふとこぼれ出た乱菊の一言が耳に入ったのか、三人の副官補佐達は苦笑を浮かべる。
 いつもなら日番谷と乱菊の二人で行なう作業が、隊長不在の今回は乱菊と三人の副官補佐の合計四人
がかり。
 慣れない仕事に四苦八苦しながらも、どうにか期日前日に終わらせることができたのだ。
 日番谷の有能ぶりが伺えるというものである。
「やっぱすごいっすよね、日番谷隊長は」
「あの量の書類、全部ひとりで目ぇ通してんだもんな」
「さすが『天才児』ですよねぇ・・・」
 副官補佐達の賞賛に、乱菊はたちまち苦い顔になった。


『まぁね、確かに隊長は死神としてすごい人よ・・・すごい人なんだけど・・・ね・・・』


 これから乱菊は十番隊隊長室で寝ているはずの、日番谷の様子を見に行かなくてはならない。
 そのことを考えだけで今から気が重く、乱菊は隊員達に気づかれないようにこっそりため息をついた。


 卯ノ花の診察は大人しく受けてくれのだが、熱ざましの注射が出てくると日番谷の顔色が変わった。
 斬魄刀に斬られることを思えば痛くも何ともないのに、なぜあんなに嫌がるのか乱菊には不思議で
ならなかったが。
 日番谷はこれぐらいの熱なんてすぐに下がると言ってさんざん渋っていたが、それまで黙っていた
卯ノ花が耳元で何やら囁いた途端、日番谷が自分から腕をまくり始めたのに乱菊は心底驚いた。
 一般的に四番隊は地位が低く他隊の隊員に蔑まれているが、卯ノ花だけがそのような扱いを受けて
いないことを、乱菊はやっと理解できたような気がした。
 診察の後に四番隊薬剤班の隊員が処方した薬を届けてくれたというのに、日番谷は注射以上に薬が
嫌いらしく乱菊がいくら言っても飲もうとしない。


 今朝枕元に置いておいた薬も、きっと手つかずのままだろう。
 乱菊は執務室の壁に取り付けられた時計に目をやる。
 そろそろ隊長室に行って、今日こそ薬を飲むよう説得しなくてはならない。
「あたしちょっと隊長の様子見に行ってくるわ・・・」
 副官補佐達の見送りの声を背に、乱菊は重い足を引きずって執務室の障子を開けて外に出た。




 十番隊詰所を出たところで「乱菊さん」と、鈴を転がすような声に名を呼ばれた。
 手を振りながら走り寄ってくるのは日番谷と長い付き合いで、ある意味弱点とも言える人物。
「あら、桃じゃないの」
「こんにちは、乱菊さん」
 乱菊の前に立ったのは五番隊副隊長の雛森桃。
 流魂街か現世に巡察でも行っていたのか、桃の後ろから五番隊隊長の藍染惣右介がゆっくり歩いて
くるのが見えた。
「藍染隊長もこんにちは」
「や、松本くん」
 柔らかい笑みを浮かべて藍染は乱菊に片手を上げて挨拶をすると、音もなく桃の隣に立った。


「日番谷くんの風邪は良くなったかい?」
「日番谷くん、大丈夫ですか?」
 同時に日番谷の体を心配する二人に、乱菊は思わず笑いを誘われる。
「心配してくれてありがとう。卯ノ花隊長に診察してもらって、だいぶいいみたいだわ」
 にっこり笑って乱菊がそう言うと、桃の表情が少し曇った。
「あの・・・やっぱりご迷惑おかけしてるんですね?日番谷くん・・・」
「え?」
 そんなに笑顔がひきつっていただろうかと、乱菊は慌てて頬を押さえた。
「あまり無理しない方がいいよ?松本くん」
「はぁ・・・」
 二人に見透かされてすっかり気が抜けた乱菊は、返事ともため息ともつかない声を宙に放つ。


「日番谷くん、薬嫌いで全然飲もうとしないでしょう?」
 桃の心配そうな声に、乱菊はため息をついてうなずいた。
「そうなのよ・・・隊長クラスに効く薬って特別処方だから、これ以上卯ノ花隊長に無理言えない
でしょ?これ以上不在にされると困るから、飲んでくれって何度も言ってるのに・・・」
「・・・やっぱり、ごめんなさいね?乱菊さん」
「いいのよ、桃が謝ることじゃないし・・・隊員にはとてもそんなこと言えやしないから、あたしも
辛くってさ・・・いっそのことバラしてやろうかとも思ったけど、それもねぇ・・・」
 痛み始めた頭を押さえて、乱菊は本日何度目かの長いため息を吐き出した。
「あんたに訊こう訊こうと思ってたんだけど、その時に限って色々重なっちゃうし・・・なかなか
上手くいかないもんだわ・・・」
 ひとりで何やらぶつぶつと呟いている乱菊を、藍染と桃はきょとんとした目で見ていた。


「ねえ、桃・・・」
 長い髪をかき上げてから、乱菊は桃の肩の上に手を置く。
「な、何ですか?」
「あのさ・・・隊長が風邪引いた時ってどうしてた?」
 桃は大きな目を数度瞬かせてから、腕を組んでしばらく考え込む。
「そんなに考え込むほど前のことなの?」
「ええ、日番谷くんよりもあたしの方が寝込む機会が多かったから・・・」
 これには乱菊も藍染も納得する。


「そうだ!」
 しばらく考えた後、突然ぱっと表情を輝かせて桃は手を打った。
「西瓜ですよ、乱菊さん」
「西瓜?」
「日番谷くんは熱が出ると、決まって西瓜が食べたくなるんです」
「そうなの?」
「ええ。『お薬飲んだら西瓜切ってあげるから』っておばあちゃんが言ったら、素直に薬飲んでました
もの」
「西瓜かぁ、なるほどねぇ」
 乱菊は何度も首を縦に振って、大きくうなずく。
「わかったわ、早速やってみる」
 桃の肩をぽんと叩いて乱菊は打って変わった明るい顔で微笑んだ。
「頑張ってくださいね、乱菊さん」
「うん、ありがと!桃」
「気をつけるんだよ、松本くん」
「はい、藍染隊長もありがとうございました」
 乱菊は桃と藍染に手を振って、果物屋に向かって走り出すのであった。





 布団の中でうとうとしていた日番谷は、馴染みの霊圧が近づいてくるのを察知して目を覚ます。
 素早く布団を頭まですっぽり被ってもぐりこんだところで、隊長室の障子の前にすらりとした影が
立った。
「隊長、起きてます?」
 乱菊の声に日番谷は何も返さないでいると障子を開く音が聞こえた。


「寝てるんですか?隊長?」
 乱菊が部屋に入ると中央に敷かれた布団から、銀色の髪がひょこり覗いているのを見つける。
 果物屋の主人に一番甘いものをと選んでもらった西瓜を、乱菊は気づかれないようにそっと畳の上に
置いた。
「あ、やっぱり薬飲んでない」
 わざと咎める口調で呟いて大きくため息を吐き出すと、布団の盛り上がりがびくっと動く。
 自ら狸寝入りをばらしてしまったのに気づかず、そのまま布団に頭までもぐり続けている日番谷を、
暑くないのだろうかと乱菊は呆れた視線を向ける。
 日番谷の目がないのを幸いと乱菊は西瓜を奥の台所へ持って行き、湯をわかす横で冷やす準備をした。


 ぬるま湯に浸した手ぬぐいと洗面器を持って乱菊が台所の影に身を寄せると、何をしているのか気に
なってきたのか布団がもぞもぞと動いて、日番谷の上半身が出てきた。
「あーら、隊長。お目覚めですか?」
 待ってましたとばかりに明るい声と笑顔の乱菊が出てくると、見破られていたのがわかったらしく
日番谷は悔しそうに汗だくの顔を歪める。
「松本、テメェ・・・」
「あらあら、汗びっしょりじゃないですか。着替え出してあげますから、これで拭いてください」
 反撃の隙を与えることなく乱菊は手ぬぐいを日番谷の手に押しつけて、着替えが収められている箪笥
の前に立った。


「後でお背中拭きますね」
「しなくていい・・・」
 明らかに動揺する声を背に、乱菊はせっせと着替えを用意する。
「だめですよ。汗をかいたらちゃんと拭いておかないと・・・治るもんも治りませんよ?」
 そう言いながら振り向くと、日番谷は上半身裸で右の二の腕のあたりを拭いていた。
「はい、貸してください」
「い・・・いい!自分でやる!」
 着替えを置いて乱菊が手を差し伸べると、日番谷は頬を赤く染めて手ぬぐいを隠そうとした。
 だが素早く乱菊は手ぬぐいの端を掴んで、まんまと日番谷から奪い取る。
「松本!」
「さ、いい子だからあっち向いてください」
 平然とした乱菊の声と表情と子供扱いに少々気分を害したのか、日番谷は唇を尖らせながらも大人しく
背中を向けた。


 手ぬぐいを洗面器のぬるま湯に浸して水気を絞った後、乱菊は日番谷の小さな背中を拭いていく。
 少年のものらしく筋肉があまりついていない白い背中と腕。
 それでもところどころに小さな傷跡が残っており、まだ幼い隊長の背負ったものの重さを感じた乱菊の
胸が痛んだ。
「はい、いいですよ・・・着替えてください」
 乱菊が脱ぎ散らかされた寝巻きを洗濯場へ持って行っている間に、日番谷は新しい寝巻きに着替える。
 ついでに氷水の入ったたらいの中の西瓜の冷え具合を確認して、乱菊は部屋へと入っていった。


 乱菊が白湯の入った湯のみを差し出すと、日番谷は黙って受け取って飲み始める。
「そういえば・・・明日は例の書類の提出日だったよな?」
「ええ。補佐と早目に取りかかったおかげで、今日無事に終わりましたから。ご心配なく」
「そうか、ならいいんだが」
 と、日番谷は白湯を飲み干した。
 喉が乾いていたのか満足そうに日番谷が息をつくと、不意に目の前を影に覆われた。
「ん?」
 日番谷が目線を上げると、吐息がかかるほどの至近距離にあったのは乱菊の顔。
「ま、松本!?」
 額がぴったりと合わされて、日番谷は真っ赤な顔もひっくり返る声も隠すことができない。
「うーん、まだちょっと熱がありますね」
 全く意識してなさそうな乱菊に日番谷は面白くなくなるが、頬をくすぐる髪とくっついた額のぬく
もりが妙に心地良かった。
 どきどきと波打つ胸が息苦しくて目線を下に向ければ、瀞霊廷中の男どもを魅了してやまない乱菊の
あの谷間が。
 日番谷には刺激が強すぎたのか、意識が遠くなりかけたところでようやく乱菊の額が離れていった。
「無理しないで休んでてください、隊長」
 ほっとしたような名残惜しかったような複雑な心を抱え、少々疲れた日番谷は大人しく布団に入る
ことにする。


「そもそも隊長がお薬をきちんと飲まないから、熱が下がらないんですからね」
 始まった説教に日番谷は寝返りをうって、乱菊に背を向けた。
 まだ乱菊の顔をまともに見れないという理由もあるのだが。
「・・・んなもん飲まなくても寝てりゃ治る」
「そう言い続けて五日になりますけど?」
 すぐさま返ってきた反撃に日番谷はぐっと詰まる。
「とにかく」
 乱菊は今日の中で一番長いため息を吐き出した。
「暇を見つけては隊長の様子やお薬のことを訊こうとする、卯ノ花隊長や四番隊隊員から逃げ続けなきゃ
ならない、あたしも気持ちもわかってくださいよ」
 そこまで言っても日番谷は首を縦に振ろうとはしない。
 それほどまでに薬を飲みたくないのかと、乱菊は再度日番谷の背中に呆れた視線を向けた。


「そろそろ冷えたかしら?西瓜」
 と、白々しく乱菊がその果物の名を出すと、日番谷の耳がぴくっと動く。
 どうやら桃の記憶に間違いはなかったようだ。
「西瓜・・・あんのか・・・?」
 小さく呟いた日番谷の予想通りの反応に、乱菊は吹き出しそうになるのを堪えた。
「ええ。いっちばん甘くておいしいのをって、お店の人が選んで下さったんですよ」
「そうか・・・折角お前が買ってきてくれたんだし・・・」
「その前に」
 いそいそと起き上がろうとする日番谷に、すかさず乱菊は横槍を入れる。
「お薬を飲んでから・・・ね?」
 にっこり微笑んで乱菊が言うと、日番谷は薬を飲む前から苦い顔になった。


 乱菊は水を入れた湯のみを渡してから、次は日番谷の手に粉薬の包みを握らせる。
 日番谷は苦い顔のまま手の中の粉薬を見た後、乱菊の方に視線を向けた。
「さ、おいしい西瓜が待ってますよ?」
 揺るぎ無い笑顔の乱菊に日番谷はすっかり観念したのか、粉薬を口の中に入れて一気に水を飲み干して
いった。
「あら、ちゃんと飲めるじゃないですか」
 少し青い顔でぜぇぜぇと荒い息をつく日番谷の横で、乱菊は嬉しそうに手を打つ。
「それじゃ、西瓜切ってきますから待っててください」
 途端に日番谷の顔色が良くなって、乱菊は心の中で苦笑する。


 乱菊が西瓜を切った皿を持って来ると、早速日番谷は「いただきます」と言いながら手を伸ばしてきた。
 それからまるで生き返ったように、おいしそうに西瓜にかぶりついている。
 そんな日番谷の横で乱菊も赤くみずみずしい西瓜の果肉を味わう。
 さすが果物屋の主人の目は確かで、西瓜はとても甘くて色も鮮やかだった。


「二人で西瓜一個は多かったかも」
「・・・そうだな」
「明日手伝ってくれた補佐の子達と、桃のとこにも持ってってあげようかな」
「ああ、そうしてやれ」
 種を吐き出しながら日番谷もうなずく。
「じゃ、ついでに切り分けておきますか」
 自分の分の西瓜を食べ終えて乱菊が立ち上がると、日番谷は新たな一切れに取りかかるところだった。
「あまり食べるとお腹壊しますよ?」
「・・・これでやめとく」
 日番谷が西瓜にかぶりつこうとしたところで、何か引っかかったのか動きが止まる。
「西瓜・・・薬・・・あっ!もしかして雛森のヤツか!?」
「さあ?知りませんけど?」
 含みのある笑みを残して乱菊はさっさと台所に入っていった。



 翌日、見事全快した日番谷は職場復帰を果たすこととなった。
 それは薬の効果か、それとも西瓜の効果か。
 それともまた別のものの効果なのか誰もわからない。













ブラウザバックでお戻り下さい。






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