風に泣く




風が流れ。



闇が揺れ。



りん、と涼しげな音が、静寂を震わせた。





+ + +





『綺麗な肌なんだから、蚊にでも刺されたら大変』
死覇装ではなく、帯を緩く巻いただけの浴衣に身を包んだ乱菊は、そう云って馴れた手
つきで床の間に蚊帳を吊る。その中には幸せそうに寝返りをうつ少女が一人。まるで自
分の家であるかのように安心しきった表情を浮かべ、眠りを貪っている。

剣八はその様子を縁側から眺め、いい気なものだと息を吐く。

幸せそうに眠っている少女とは反対に、剣八は先ほどからぶつくさと文句を垂れ、不機
嫌を隠そうともしない。おかげで凶悪な形相が、一層空恐ろしいものになる。


「折角引き取りに来てもらったんですけど、今日はこのまま寝かせてあげて下さい」
背中越しに、声がした。
「あらあら、怖い顔」
艶めいたそれが、剣八の広い背を撫ぜた。



「骨折り損になったのが、そんなに気に入りませんか」
まるでからかっているかのような言い草であった。見た者の殆どが慄くか泣き出すか悪
くもないのに詫びて平伏すような剣八の不機嫌を、乱菊はその一言で片付けた。そして
とどめとばかりに少し離れた処からそんな男を見下ろし、くすりと笑った。
本人にその気は欠片ほどもないのだが、一寸口端を上げただけの微笑であるにも関わ
らず、何ともいえぬ艶かしさをまとった笑みである。



気に入らねぇ。



剣八は黙ったまま、ただ一度ちらりと目線を上げると、直ぐに女から顔を逸らす。まるで
乱菊の視線から逃れるように。それもまた、剣八の不機嫌に拍車をかける。勝手なこと
だと重々承知しているが、苛立ちは剣八自身ではなく、己にそうさせた乱菊へと向かう。







剣八は、どうにもこの隣の隊の副隊長が苦手だった。


何がどう気に入らぬのか、正直なところ剣八にも分からない。気に入らないから気に入
らないとしか云いようがない。しかし、それでも理由を挙げろと問われたら、全く無いとは
言い切れない。まずは態度が気に入らない、次に口のきき方が気に入らない、無意識
に纏っている色香が気に入らない。唯一絶対の信頼を置く自分の副隊長が、妙に懐いて
いるのも気に入らない。さらにはやちるが何時の間にかこの乱菊の役宅に押しかけたお陰で、
彼女を引き取りにここに来る羽目になったことまで気に入らない。結局それが徒労に終わって
しまったことなど、云うまでもなく気に入らない。







だが、一番の理由は乱菊のあの笑みであろうと剣八は思う。




いくら妖艶であろうと、どれほど艶かしいものであろうと。



それには何も無い。



思慕や親愛の情はもとより嫌悪も怨嗟も、それどこか僅かばかりの感情の欠片さえもこ
ちらに向けてはこない。



この女は、只笑うだけであった。

お前は私にとって何の意味も価値もない者であると云うかの如く、只笑うだけであった。



剣八には、それがどうしようもなく腹立たしい。
視線を合わせても言葉を交わしても、水を斬るかの如くまるで手ごたえがない。
その言動に、暗にお前など歯牙にもかけてはいないと声高に嘲られているような気がし
てならない。



剣八は決してこの女に気がある訳でも、必要以上に己の力を誇示したい訳でもない。
女など、戦いの無い時の飢えを紛らわす、そのための戯れに過ぎぬ。力など、己より弱
い者にひけらかしたところで、何の興奮にも高揚にもならぬ。逆に自分より格下の者に
侮られようと嘲られようと、いい気はしないが痛くも痒くも無い。何より、歯牙にもかけて
いないのは、こちらも同じことである。



だがどうしてか剣八は、この女に苛立つことを止められない。







ふいに。




りん、と涼しげな音がした。



それは軒先に吊るされた風鈴の音であった。
朝顔の絵付けがされている、鮮やかではあるが取り立てて珍しい柄ではない…要する
に何の変哲も無いただの風鈴が、剣八の頭の上で一声鳴いた。
剣八はその音にたしなめられたような気がして、ふと我に返る。

「…世話をかけた」

そして本来なら一番最初に言うべき台詞を、剣八は振り向きもせずに吐いた。
直ぐに、いいんですよ、と乱菊の声が返ってくる。そう云っている顔は矢張り笑っている
のだろうかと、剣八は背を向けたまま思った。



「どうせ非番で暇持て余していたんですから」



突然、女の声が近くなった。そう感じたのは、剣八の気のせいではなかった。手元を見
ると、来客用の湯呑が湯気を立てていた。そして少し視線を上げると、すぐ隣に乱菊が
いた。洗いたての上げた髪に纏わる水滴の数まで、はっきりと見分けられる程の距離で
あった。剣八は一瞬目を見開いたが、直ぐに、元の悪鬼の如き形相に戻る。
「本当は日本酒か何かの方が好いんでしょうけど、更木隊長まで酔っ払って帰れなくな
ると、あたしの寝る場所が無くなっちゃいますから」
だからこれで我慢してください、それにこれはこれで美味しいんですよ、と云って、乱菊
は手に持った自分の湯呑に口を付けた。しかし猫舌なのか、直ぐに小さく、熱ッ、と呟い
て唇を離す。剣八は思わず喉を鳴らしてくつくつと笑う。その仕草はまるで幼子のよう
だ、そういえばやちるもよく同じような事をしては顔をしかめていた、ふとそんなことを思
い出した。思い出すと、余計に可笑しさがこみ上げてきた。


「苦手か」

「ええ、一寸だけ」

「ガキみてぇだな」


口調が幾分和らいだのは、女の仕草のどこかに、やちるの姿を見たせいだろう。だから
思わずガキのようだという言葉が出た。それだけであった。


「ガキみたい…ですか」


だが乱菊にとって、それは只の言の葉ではなかった。はっきりと口にはしなくとも、剣八
はそれを察した。女の瞳が、その奥に在る何かが揺らいだ。


「前にも、同じようなことを云った奴がいたんですよ」


消え入りそうな声だった。憂いと悲しみと諦めの入り混じった、歪んだ顔だった。
そこにはさっきまでの人を食ったような言い回しも、空々しいまでの明るさもなかった。自
身もどうしたらいいか分からないような、途方に暮れているような表情がそこにあった。
その様子は、何時ものしゃんと背筋を正し、肩で風を切って颯爽と歩く女の姿からは遠く
かけ離れている。どうしようもなく頼りない。


だが剣八は、こちらの方が好いと思った。


腹の中で怒っていても泣いていても笑っていても、能面のように変わらぬいつもの面よ
りは、こちらの方が好い。裏表が在ることが大嫌いな剣八は単純にそう思った。
だが、それは憂い顔が好いという訳ではない。裏表がある奴と同じくらい、剣八は辛気
臭い奴も大嫌いだった。



「そういやぁ…」
だから剣八は、話を変えることにした。
「何だってあいつはお前んとこに」
苦しい話の持っていき方だとは思ったが、元々藍染や市丸のように弁の立つ方ではな
い剣八にしてみればこれが精一杯であった。





りん、と、風鈴が揺れた。
さして離れていない二者の間を、夜風と軽やかな音がすり抜ける。
静かであった。だが、その静寂は重苦しいものではなかった。







「…風鈴を、ね」
剣八の胸中を察してか、それとも乱菊自身もあまり拘りたくない事だったからか、彼女は
するりと男の意図に乗ってきた。
「風鈴を取りに来たんです」
風鈴、という言葉が出た瞬間、剣八は思い切り顔をしかめた。それくらい意外なことだっ
た。一緒に遊んでくれだの食い物が欲しいだと云うならまだ分かるが、まさかそんなもの
を…正直、結びつかない。どうしてあの幼子がそんな腹の足しにもならない、これといっ
て面白い玩具でもないものをねだったのか皆目分からない。
「あいつが、か」
「ええ、昨日うちの隊長の部屋にあったのを見てからずっと云ってたんですよ、いいな
ぁ、欲しいなぁ…って」
だから、うちに使ってないのが沢山あるから、よければ全部あげるわよ、って云ったんで
す。そしたら今日の朝一番からやってきてそれからずっと…。



そう云って乱菊はくすくすと思い出し笑いを零し、畳の隅に置かれている木箱を指差し
た。見れば、そこには古びた木箱がぽつんと置いてあった。そして中には溢れんばかり
の、そして様々な柄の風鈴が入っていた。幾つくらいあるのか、一寸見ただけでは分か
らない。それでもかなりの数が入っているのは確かなようだ。
「一日中、あれを眺めたり磨いたり並べたり…いろいろいじってましたねぇ」

楽しそうでしたよ。

おそらくは一日中付き合わされたであろう乱菊の話を聞いても、剣八は今ひとつ実感が
湧かない。いつも自分を含めた強面の連中を従えて傍若無人且つ縦横無尽に暴れまわ
っている少女が、こんな硝子細工に夢中になる姿が想像できない。第一、あのがさつで
大雑把な奴が壊すことなく扱っていたということが信じられない。






「意外だな」
「そうですか、あの子だって女の子なんだから綺麗なモノに興味を持っても不思議じゃあ
ないと思いますけど」
「あいつだけじゃねぇ、お前もだ」
剣八の言葉に、乱菊はそれこそ意外だと云わんばかりの顔をした。彼女が気づいている
かどうかは分からないが、それは隙だらけの…言ってしまえばかなり間の抜けた顔だっ
た。もっとも、それも一瞬の出来事であったが。
「浮ついた見かけによらず凝り性だな、こんなにかき集めるなんてよ」
悪意を込めたつもりはなかったが、元々口が悪いのでどうしても棘のある言い回しにな
る。だが剣八は自身でそれに気づかないし、気にもしていない。隣で女が明らかに気を
悪くして眉間にしわを刻んでいるというのに、剣八は謝るどころか益々上機嫌になるば
かりだ。能面のような笑い顔よりは、憂いに沈んだ顔の方が好い、だがそれよりも怒っ
ている顔の方が好いと剣八は思ったからだ。
「更木隊長の言葉には頷けない点が多々ありますけど…それは云っても無駄でしょうか
ら追求はしません。けど、一つだけはっきりとした間違いがあります」



それ、あたしが集めたものじゃありませんよ、と乱菊は云った。





昔の男が残していったモノなんです。







調子に乗って藪を突付いたら、蛇が出てきてしまったか。
今度は剣八が眉間にしわを刻む番だった。こんな話が出てくるとは思わなかった。知っ
ていたならこんな話は振らなかった。断じて、それがこの女の色恋話だから後悔してい
るのではない。この男、誰のどんなものであっても色恋や艶事の話題が嫌いなのだ。こ
の手の話は総じて鬱陶しい上に面倒だ、おまけに本人がそれ絡みに全く興味を持って
いない。だから仕方の無いと云えばそうなのかもしれないが。

「莫迦な男でしたねぇ…風鈴なんて一つか二つあれば十分なのに、毎年夏の祭りの度
に三つも四つも買うんですよ」

再び不機嫌の坂を急降下する剣八を横目に、乱菊はぽつぽつと話しを始める。いつもは
この手の話を厭う剣八だが、他に逃げ場のない状況に、仕方なく眼力だけで死人が出
そうな形相になりながらも、一応は黙って乱菊の話に耳を傾ける。

「欲しいものは手に入れないと気がすまないような奴でしたから、らしいと云えばらしい
んですけど。でも、結局自分の家の押入れだけじゃ収まりきらなくなって、あたしにも一
箱寄越してきたんですよ…」

そう云えば、あいつからちゃんと貰ったモノってこれが最初で最後だったかしら。まぁ、こ
れも『ちゃんと』とは云い切れないけれど。そう云いながら、過ぎた時に思いを馳せる女
の横顔に在ったものは、懐かしさではなく寂しさであり、歯痒さであり、今なお抑えること
のできない思慕。自分に向けるそれとはあまりに違う、鮮烈なまでに深い情。それを羨
ましいとは思わない。だが、それほどの深い情と過去に囚われている女を哀れには思
う。過ぎた時には何の価値も無い、剣八はそう考えている。そこにどれほど魂躍る戦い
があったとしても、血を沸き立たせる瞬間があったとしても、それはやがて色褪せる。色
褪せるから又飢える。飢えるからこそ新たな快楽の一瞬を求め、進む。剣八はそうし
て、生きてきた。それが剣八の生き方だった。



この女とは、あまりに違う。違うからこそ、哀れに思う。



「けど、だからこそ余計に未練になっちゃって…。本当は全部叩き割ってやろうと思って
たのに、結局ずるずるとしまったままだったんです」


まるであたしのここの中とおんなじ。
自嘲めいたことを云いながら、乱菊は自分の胸をとんとんと叩く。



「捨てなきゃ、壊さなきゃ忘れられないって、あたしが一番分かっているんですけどねぇ」







りん、また風鈴が鳴いた。




剣八には、それがこの女の代わりに泣いているように思えた。







「えらく曰くのあるモンを、あいつに寄越すんだな」
「…一寸は悪いと思ってるんですよ。けど、どんな話を纏っていようと、あの子にとっては
ただの風鈴ですから」


それに、きっといつまで持っていても、あたしは捨てることも壊すこともできやしないんだ
から。だから丁度良かったんですよ。やちるも喜んでますし。





つくづく哀れだと、剣八は思う。
自らを縛る過去を、自ら殺すこともできない。だが、それに飲まれ、囚われながら、それ
でも足掻くことを続ける乱菊を、剣八は好ましくも思う。
この女は弱い、どうしようもなく。だが同時に、この女は強い、比類ないほどに。
だからこれは、今ここに在るのは恋情ではなく、同情だ。強く、脆弱な者への憐憫だ。

剣八は自分にそう言い聞かせる。



「そいつが寄越したのは、そいつで全部か」

「ええ、すごい数でしょう」

「そいつは、違うのか」


そう云って、剣八は軒先で揺れる朝顔の柄をした風鈴を指差した。




「…あいつが、一番気に入ってたものです」



「そうか」



剣八はそう云うと、おもむろに立ち上がる。上背があるから少し手を伸ばせば軒先に難
なく届く。そこに揺れる女の未練にも。



「なら、こいつは俺が貰っていく」


「…え」


「忘れたいんだろ」


そう云う剣八に、乱菊は目を見開き言葉を失う。
その意味が分からないほど、乱菊も愚かではない。だからこそ、唐突に向けられた男の
優しさに戸惑いを隠せない。



「どうして…」


「やちるが世話になった、その礼だ」


理由はそれだけなのかと、乱菊は思う。たったそれだけの理由で、断ち切ってくれると
いうのか。この世界で一番の強さを、弱い自分のために振るってくれるというのか。



本当のところは分からない。ただ、乱菊は嬉しかった。
ひどく言葉の足りない男の優しさが、只嬉しかった。




「もう一度聞く、忘れたいんだろ」



そして男は、同じ台詞を繰り返す。
重なるように、男の手の中で風鈴はりん、と震えた。



「…多分」



そう云って、乱菊は笑った。
剣八を真っ直ぐに見て、泣きそうな顔で笑った。









+ + +








風が流れた。



からりと晴れた空を、千切れた雲は足早に駆けていく。



「風流やね」



十一番隊詰所、中庭に面した縁側に座った市丸ギンは空を仰ぎ、呟いた。視線の先に
あるのは、軒先に吊るされた朝顔の柄が鮮やかな風鈴。


「朝顔…ボクの好きな柄や」


そう云ったギンが横顔が僅かに翳ったことに、剣八は気づかぬままであった。


「十一番隊の隊長さんに、こないな雅な趣味があるとは思わんかったなぁ」


「別に、俺の趣味じゃねぇ」


「ならこれ、どないしたん?」


剣八は廊下にどかりと胡坐をかき、気に食わない来客に気の無い返事を返す。


「どうもこうもねぇよ、只の貰いもんだ」


「ふーん、貰い物…なんやね」


その言葉に、ギンもまた気の無い相槌を返しただけだった。







その時だった。





風が揺れた。





それに誘われるように、剣八は視線を上げた。




りん、と涼しげな音が、夏空に響いた。




そして。




その音に、剣八はふと、あの日の、あの女の眼差しを思った。









コメント:
世の需要とニーズを全く無視した剣乱で書かせていただきました(苦笑)
夏の夜に、静かに(?)寄りそう男と女の姿に萌えていただければ幸いです。





ブラウザバックでお戻り下さい。






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