処刑まであと二十九時間。
今、何が起こっているのかわからない。
あんたが何をしようとしてるのかも-―









朝から降り出した雨は夜半になっても一向に止む気配がない。暦の上では七夕なのに
今日はまだ太陽(ひ)の光を見ていない。織女(おりひめ)の一年一夜の逢瀬を雨が
台無しにしてしまった。洞穴の中で耳を澄ますと雨音が微かに聞こえる。遠くで雷が鳴る。

日番谷冬獅郎と松本乱菊は、四番隊綜合救護詰所を飛び出して懺罪宮に続く裏道を進んだ。
かなりの遠回りになることはむろん承知の上での選択だ。懺罪宮へ続く大通りは既に各隊が
全隊員を配備して蜂の子一匹洩らさぬ構えをとっている。今は他隊と必要以上の接触は避ける
べきとの判断から人目につかない山道をとった。救護詰所の裏手は小高い丘陵の南側に面して
いて、翌檜(あすなろ)林に覆われている。この丘を越えると白く聳え(そびえ)立つ懺罪宮
北門の対岸に出る。そして、その峡谷を挟んだ真正面に朽木ルキアが処刑される双極はある。

このまま一気に双極まで駆け抜けたい。急き立つ(せきたつ)気持ちを抑え、日番谷と乱菊は
ぬかるみを着実にしかし足早に進んだ。雨足が速くなる。そろそろ麓が見えてもいい頃だ。
その間ふたりは一言も口を利かなかった。
乱菊は処刑を止める理由をきかなかったし日番谷も敢えて話そうとはしなかった。

乱菊はふと思い出したように天を見上げた。雨に濡れるのなんて何年ぶりだろう。後方を走る
遠い目をした副官を時折横目で見やりながら、日番谷はもう一度自分がこれからやろうとして
いることを反芻(はんすう)した。
(取り返しはつかねぇ。)

中央四十六室が裁可した処刑を阻止する事は、護廷十三隊のみならず尸魂界全体に謀反の意志
ありと公然と表明する事に等しい。他隊長が双極に到着する前に、朽木ルキアを奪還し逃げ
おおせなければ、ふたりで全隊を相手にすることになる。それは万に一つの勝算もない。
(奴らを説得する時間はねぇ。とするとチャンスは囚人が牢から引き出されるその時だ。)
そのとき首の施錠も外される。
(その時に――。うっ!?)
一瞬頭上が真っ白になった。
あっと見上げるまもなく空が裂け、光の矢がふたりの脇をかすめてゆく。
ぐぉぉぉぉ―――――――――
つい先程まで目の前にあった十尺近い翌檜がまっぷたつに引き裂かれ、轟々(ごうごう)と
唸りをあげて燃え始めた。
「松本!! 伏せろ!!」
裂けた木片が火の粉を吹いて弾け飛ぶ。

雨は情け容赦なくふたりの体を打ち殴り、雷鳴は振動を伴い迫り来る。
こんなに大きな稲妻は初めてだ。
「ひとまずどこかに雨宿りするぞ。このままじゃ雷にやられる。」
日番谷の声に乱菊が身を低くしたまま応えた。
「隊長。林の奥に何か――洞穴のようなものが見えます。」
「行くぞ。急げ。」
地面から身を起こし。洞穴に向かって走り出したちょうどその時、二発目のいかづちが背後の
翌檜を引き裂いた。



現世が水を慕い、夏の盛りを楽しむ陽暦八月。尸魂界は陰暦七月・文月を迎えていたが、山中は
初夏の名残を惜しむように水無月の香りをいまだ留めている。

青梅(あおうめ)の匂い。青蛙の鳴き声。
夏の夜は遠い昔を思い出させる。
待っても、待っても、帰ってこなかったひとを想う遠い自分を思い出させる。
あの日もこんな雨夜だった。

「松本。」
自分の名前を呼ぶ声がした。
「はい。」
ゆっくりと声がした方へ振り返る。
洞穴の中は狭いが、暗くて日番谷の表情はわからない。
「風邪引くぞ。拭いとけ。」
木綿の手ぬぐいが無造作に膝に投げ置かれる。
「ありがとうございます。」
どこかで水の流れる音がする。川か沢が近くにあるのだろうか。
乱菊は白地に藍で「十番隊」と染められた手ぬぐいを両手で取ると、長く豊かな髪から滴る雫を
拭き取った。そしてあの日聞きそびれた事を日番谷に訊ねた。

「隊長は―――、本当に市丸隊長が、藍染隊長を――。」
喉に何か引っかかっているのだろうか。声が出ない。
「―――殺したと-―。」
「―――。」
「そう――思っているんですか?」
間髪いれずに答えると思ったのに、予想外にも日番谷はむすっと黙ったままだった。
(聞こえなかったのだろうか。)
もう一度聞くべきかと考えあぐねている時、ぼそりと声がした。
「おまえはどう思う。」
「は」
「おまえはどう思うのかと聞いている。」
闇が深くなったようだ。虫の音(ね)がする。

見えない手で唇を塞がれてるようだ。
咄嗟(とっさ)の問いかけに言葉が出ない。
(私は―私はギンがやったとは思えない。でも、必ずやっていないとも言い切れない。)
日番谷は黙って一点を凝視している。闇夜で日番谷の顔は見えないが、視線の先はわかっている。
息が詰まる。
(私は――混乱している――のだ。)
他にどう表現すればよいのか思いつかなかった。



あの暗い日々 あの暗い空の下 私の隣に誰もいなかった。
現世の記憶は薄らいで、幸せだったのかさえ覚えてない。
感じるのは得体のしれない恐怖感。慢性化した空腹感。草の根を噛んだこともあったっけ。
ここで死んだ後はどこへ行くんだろうといつも考えてた。
土に倒れた私に、手を差しのべてくれたのはあんただけだった。
あんたは私の命の恩人。そして私のたったひとりの家族。
あんたは誰よりも近くて誰よりも遠かった。
あんたにとって私は一体なんだったんだろう。

「松本。」
「―――あ――はい。申し訳ありません。私は――私には、わかりません。」
「松本。」
「――――」
「何がそんなに怖いんだ?」



どっぷり日が暮れて、洞穴は真っ暗になった。自分の居場所もわからない。日番谷は来た方角へ
顔を向けた。蝉が騒立つ。
雨が止んだようだ。せせらぎの音がはっきりと聞こえてくる。

松本はあれから一言もしゃべらない。
視覚が利かないと他の五覚が鋭敏になる。松本が震えている――。寒さからくるものではないことは、
すぐにわかった。そして直感的に感じた事をそのまま口にしてしまった。
(軽率だったな。)
悔やんでみたが、言ってしまったことは取り返しがつかない。
普段の自分だったら聞かなかっただろう。闇は人を大胆にさせる。
足元を水が一条洞穴の外へ流れていく。どうやら洞穴の奥に湧き水があるらしい。
この水は沢へと続くのだろうか。



何かの気配がする。羽音。
日番谷の目の前に虫がふわりと舞い降りた。
虫が闇を飲み込んだ。

はっ―――。 息を呑む。
虫は螢だった。
螢が前にいる女の左肩にとまると、ぼうっと鈍い提灯(ちょうちん)のような灯(ともしび)が現れた。

女の両頬を透明な糸が一条流れている。
やや伏目がちだが、凛としたまなざしを真っ直ぐこちらへ向けている。
螢火が乱菊の瓜実顔の輪郭を淡く照らし出した。
蜜のような深い茶色の瞳。小股が切れ上がっている。柔らかな灯りが形よい弓形の眉をくっきりと映し
出す。

日番谷は、乱菊の肌が乳白色であることや、桜色の頬をしていることに初めて気が付いた。それは意外な
ほど清らかだった。
竹を割ったような性格の副官の涙を見るのは初めてだった。なぜか言葉にできない感動が突き上げてくる。
昔、一面の桜並木を見た時の、あの感動によく似てる。

電流が体に走る。
何を伝えたいのかわからないまま口を開いた。
その時、つう――っと乱菊の肩から螢が離れた。
螢は洞穴の外へ飛び去っていく。引っ張られるように乱菊がすうっと立ち上がる。
「隊長。外へ出てみませんか。」
日番谷が答えるよりも早く乱菊は螢を追って洞穴を出た。日番谷は軽く唇を噛んで乱菊の後に続いた。



洞穴の下に小さな浅瀬があった。無数の螢が川面(かわも)を覆い尽くす。
無数の螢は星々で、流れる水は銀河であった。どこまでも遠く続いている。
ふたりは言葉を交わすこともなく、自然と流れに沿って歩き出した。足元を沢蟹が一匹這って行く。
日番谷が密かに乱菊を盗み見ると、頬はもう濡れてはいなかった。
(螢が見せた幻か―――)

今しがた見たものが幻などではないことは、自分でも良くわかっていた。
そうでなければ、この胸奥の変化を説明することができない。
いや、この変化こそ螢火がつくり出した幻なのかもしれなかった。
日番谷は乱菊と並んで歩きながら、自分の背が彼女の肩にも足りないことに、ふと気がついた。
(新発見づくしだな。今晩は。)
ふたりのゆくてを螢が二匹、道案内するかのようにふわりふわりと舞っていた。












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